「省エネな脳」と錯視、トリックアートの仕組み という話
- monobio
- 2020年10月23日
- 読了時間: 3分
僕らの脳はすごく正確で精密なマシーンのようなものではなくて実は休みたがりで、あまり自分自身が働かないように必死になっているとかいないとか。
そんな話と錯視、錯覚、トリックアートなんかの関係性と脳が理解したがるものの法則や、認知におけるアレヤコレヤの話になるんですが
まずは結論から・・・
脳が認知するものは、認知しやすい形に脳が勝手に修正したもの
僕たちの脳は冒頭で書いたように省エネであろうとする働きがあるようで、その話をしだすとこれから話すことがまで書ききれなくなってしまうのでまたの機会に・・・
例えば有名な錯視を一つご紹介すると
ミュラー・リヤー錯視と呼ばれるものがありますね。 あるんです。 名前は覚えなくても良いですが多分見たことがあると思います。
こんなやつです。

皆さんご存知、どちらも同じ長さの横棒が下のほうが長く感じてしまうという錯視です。
どうでしょうか、下のほうが長く見えるでしょうか?
では、なぜ僕らの見ているものは実際に存在する形状とは違う認知になってしまうのでしょうか。
それは僕らの脳は「現実で起きている可能性が高いこと」の方に依存しているからと言われています。
そして、それが起きる理由はとかく、「現実で起きている複雑性」よりも「現実で起きているであろう予測」のほうが脳のリソースが少ないからと言うことになるわけで・・・
省エネのために僕たちは見ているものの情報を正確につかめないということがあるみたいです。

トリックアートのご紹介なんですが、りんごが浮いて見えるのであれば、それは脳が省エネしているということです。
え?現実で起きている可能性が高い?
と言われると現実で起きていることではないんですが、笑
でもここで重要なのは「額縁の前にりんごがあるという情報」ということなのです。
脳は状況によって有り得そうな解釈をしたがるものらしく、僕たちの見ている写真や絵が
立体的に見えているのであれば、それは脳が「そっちの理解のほうが楽だから」という判断をしたということになるのだ、ということで。
正確に言えばトリックアートと一部の錯視に関しては、脳の理解構造と眼球運動が入るか入らないかという点で原理は多少違うのですが、細かいことは調べてみてくださいませ。
そして、僕らが見ているものの解釈というのは冒頭で書いたみたいに正確、完璧なものではなくて、
例えば過去の経験や記憶、つまり認知に関するカテゴリー化に依存する
ということもあるみたいですね。
物体が持っている情報量が平面なのに、立体的に見えるのであれば、それは立体で見たときの情報が平面の中に再現されていて、あるいは見えるであろう予測に基づいた情報ですかね。
そういうのをもとに脳が「こうやって解釈したほうが楽だ」というメカニズムによって立体的に見えてしまっているということですね。
人工樹だって本物の植物が持っている情報量を内包していればきっと人の経験、記憶に基づく植物というカテゴリーから植物として認知したほうが楽だと思わせることができるんじゃないかと思ったりするわけです。
脳に植物だと思わせることができれば僕の勝ちってことで、
今日はこんなひとりごとでした。
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